2026年9月2日、Polaris.AI株式会社はオンラインセミナー「技能伝承 × AI ― 熟練者の"暗黙知"をどう受け継ぐか」を代表取締役CEOである徳永による登壇で開催しました。熟練技能者の高齢化と人手不足が進むなか、ベテランの「勘所」や判断基準をどう次世代へ継承するかは、多くの製造・現場業務に共通する課題です。ただ、ひと口に「暗黙知」と言っても、その中身は一様ではありません。マニュアルを整えれば伝わるものから、本人にも説明できない身体的な感覚まで、難易度は大きく異なります。本ウェビナーでは、暗黙知をいくつかの層に分けて捉える考え方を出発点に、どの層をどの技術で抽出し、AIやロボットに載せていくのかを解説しました。本レポートでは、当日の講演内容を投影資料を交えてお伝えします。熟練技能とは、そもそも何か議論の土台として最初に置かれたのが、熟練技能の定義です。本講演では、熟練技能は作業手順ではなく、状況を見て、判断し、動作を調整するまでの一連の流れであると定義をしています。図1:熟練技能は「正しい動作」ではなく「状況に応じて正しい動作を選び修正し続ける能力」組立を例にとれば、部品や工具の状態を見て、組み付け方を判断し、工具の当て方や力加減を調整し、結果を確認して次の動作を修正する。熟練者はこのループを無意識のうちに高速で回しています。検査であれば「どこを見るか」「何を異常と判断するか」、保全であれば「音・振動・においのどこから確認し、次に何を疑うか」。対象は違っても、知覚 → 判断 → 動作 → フィードバックという構造は共通しています。徳永は、この構造を人間そのものの理解に引き戻して説明しました。人間には五感というセンサーがあり、脳があり、身体があります。行動の成否が報酬として蓄積され、その積み重ねが「勘」や「直感」と呼ばれるものを形づくる。原理的には、この構造を復元できればAIにも同じことができます。ただし現実には、たとえば人間の触覚と同等のセンサーがまだ存在しないなど、復元できない部分も残ります。どこまでが再現でき、どこからが難しいのか。その切り分けが、この日の主題でした。現場の実感を、データで確認する講演資料では、労働政策研究・研修機構(JILPT)の調査結果が引用されました。図2:JILPT「ものづくり産業における人材確保・定着と技能継承に関する調査」より製造企業の85.5%が将来の技能継承に不安を抱えており、その内容として最も多いのが熟練技能者の高齢化・退職で63%でした。注目すべきは、技能継承のために実際に行っている取り組みの首位が「再雇用や勤務延長などにより高年齢者従業員に継続して勤務してもらう」で54.8%だという点です。時間を確保しているだけで、仕組みとしての継承強化はなお課題として残っている、というのが業界全体の現在地です。なぜ、マニュアルだけでは伝わらないのか講演資料では、従来の技能継承だけでは熟練者固有の「動作と判断」を残しにくい理由が、3つの壁として整理されていました。図3:工数の壁・紐づけの壁・言語化の壁工数の壁は、インタビューや文書化にかかる手間です。作業ごと・熟練者ごとに継続して整理し、更新し続けることは現実には難しい。紐づけの壁は、言葉として残しても「どの場面で・何を見て・なぜそう判断したか」が実際の動作と結びついていないと、現場で再現できないという問題です。そして言語化の壁は、力加減やタイミングのように、熟練者自身も言葉にしにくい領域が残ることを指します。残しやすいのは手順・規定値・チェック項目など。残しにくいのは力加減・タイミング・視線の置き所・判断の分かれ目などです。技能の核心ほど残りにくい、という構造がここにあります。徳永は身近な例として、調達業務を挙げました。ベテランが図面を見た瞬間に、過去の類似案件から成形方法を推論し、アンダーカットの有無から必要な金型の構造まで思い浮かべ、おおよその金額を口にする。経験のある担当者は引き出すべき要件を漏れなく聞き取り、後の手戻りを防ぎます。もしその経験を有した担当者が退職すると、その領域の精度は目に見えて下がります。2. 暗黙知は、4つの層に分けて考える講演の中心に置かれたのが、暗黙知を4つの層に分けて捉えるPolaris.AI独自の整理です。「暗黙知を可視化しよう」「AIに引き継ごう」という掛け声だけで始めると、対象がどの層にあるのかが曖昧なままです。図4:暗黙知の4層スペクトラム第1層:完全な形式知 規格番号・手順書・マニュアルなど、すでに文書化されているものです。検索・参照の仕組みを整えれば対応できます。そもそも暗黙知ではないため、この議論の対象からは外れます。第2層:未記載の論理的接続 公差値と規格といった外部情報を突き合わせれば推論できるものの、その接続が記録されていない領域です。図面と規格の関係、各種コードの設計意図などが該当します。初心者には読み取れませんが、ベテランは脳内の別の知識を参照して補っています。検証可能性が最も高く、着手点として最有望なのがこの層であり、資料では「第2層から着手するのが定石」と明記されています。第3層:言語化可能だが未言語化 本人に聞けば答えられるのに、誰も聞いてこなかった領域です。ベテランのノウハウや業務のコツが該当します。形式知化の可否は、聞き方の質に左右されます。第4層:本人も説明できない勘所 職人の手わざ、臨床的な直観、美的な判断など、経験からくる言語化不可能な判断です。原理的な限界があるため、形式知化の対象としない——この線引きを最初に共有しておくことが、期待値のずれを防ぐうえで重要になります。第3層で起きている変化:AIが聞き手になる第3層について、徳永は実務での取り組みを紹介しました。ベテランへのヒアリングが難しいのは、聞き手のほうが対象領域に詳しくないためです。深い質問ができず、表面的な回答しか引き出せません。そこで、聞き手をAIに委ねます。「いま目の前にこの分野の専門家がいます。この点についてヒアリングしてください」と指示し、ベテランの回答を書き起こして戻す。これを往復すると、AIが次の質問を生成し、知見が深いところまで構造化してくれます。現在のLLMは多くの分野で深い専門知識を持っているため、人間の聞き手よりも的確に掘り下げられる、という理屈です。引き出した知識は、単にマニュアル化するのではなく、オントロジー(概念どうしの関係を体系化したデータ構造)や知識グラフの形に加工しておくと、AIが扱いやすくなります。知識の型が決まれば、使う技術はほぼ決まる資料では、暗黙知の抽出に使える技術がT1〜T8の8群に整理されていました。そのうえで、「知識の型」から技術を逆引きする一覧が示されています。図5:知識の型・具体例・主たる技術・検証可能性・成果物の対応重要なのは、資料の右から2列目の検証可能性です。抽出した知識が正しいかどうかを検証できるかどうかが、案件の筋の良さを決めます。徳永は、抽出した知識そのものの妥当性を検証する工程(Knowledge QA)が現在もっとも手薄な領域であることにも触れました。3. AIはすでに、多くの暗黙知を持っているもうひとつ強調されたのが、「AIがもとから持っている暗黙知で解決できる範囲は、想像以上に広い」という点です。なぜLLMが暗黙知を持つのか。徳永は、そのメカニズムを次のように説明しました。LLMの学習方法は、もともと「次に来る単語を当てる」という単純なものでした。ところがデータ量とパラメータ数が一定の規模を超えたところで性能が跳ね上がる現象が観察され、文章に染み込んだ経験則を拾い上げているらしいことが分かってきました。分かりやすい例として挙げられたのが、推理小説です。「犯人は——」の直前までをすべて読ませて、続く犯人の名前を当てさせる。このタスクを正確に解くには、それまでの文章を論理的に理解し、登場人物の心理まで含めた暗黙の了解を持っている必要があります。こうしたタスクを膨大に繰り返した結果、人間が文章に残してきた経験や判断のパターンが、さまざまな分野で内在化されている、という説明です。したがって最初に問うべきは、「AIに何を学習させるか」ではなく「そもそもAIがすでに知っていることで、どこまで解けるか」になります。実務での肌感覚として、対象タスクのうち6割程度はLLMとAIエージェントで対応でき、残る4割が社内固有のナレッジを必要とする領域になることが多い、と徳永は述べました。社外に記録が出たことのない知識にだけ、抽出のコストをかける。この切り分けが出発点になります。4. フィジカルAIと、一人称視点データの価値技能伝承の話は、ロボティクスの現在地と地続きです。徳永はここで、自身が模倣学習や逆強化学習(現在フィジカルAIと呼ばれる分野)の研究に携わっていた経験から解説を加えました。図6:従来ロボットと知能化ロボットの違い近年は、VLA(Vision-Language-Action)と呼ばれる、ひとつのモデルで入力から出力までを担う方式が現れています。「これをしてください」という自然言語の指示に対して、各関節のトルク値までをモデルが直接出力する、という制御の考え方です。LLMが「言葉」を生成するモデルだとすれば、VLAは「ロボットの行動」を生成するモデルにあたります。従来はモデル化が難しかった柔軟物の操作や、臨機応変な判断を伴う作業まで、対象が広がりつつあります。現場の作業映像は、記録ではなく学習資産になるここで技能伝承の話と接続します。フィジカルAIの学習には実機データが必要ですが、その収集は容易ではありません。そこで、人間の一人称視点の作業映像が学習データとして活用される研究が急速に進んでいます。手元・工具・対象物が映り、作業の流れが追える映像は、ロボットが現場作業を学ぶうえで価値の高い情報源です。つまり、技能伝承のために取得する一人称視点データは、手先の動作を分析する材料になると同時に、将来のフィジカルAI活用に向けたデータ資産にもなります。徳永はこの二面性を、いまデータを取り始める意義として説明しました。図7:外から持ってこられるものと、自社の現場でしか生まれないもの基盤モデルや汎用データは外から調達できます。一方、自社固有の設備・部品・材料、自社工程での作業動作と判断、品質の良否や評価基準、熟練者の判断と指導、例外時の対応など、これらは自社の現場でしか生まれません。AI技術の進化によってモデルを自社で一から作る必要は小さくなる一方、「自社では何が正解か」をAIに教えるデータの重要性は残り続ける。この点が、データ蓄積に着手すべき理由として示されました。5. 映像を使った技能評価は、3段階で進んできた映像を使った技能伝承の取り組みは、段階的に高度化してきました。レベル1:作業を認識し、時間・順序を比較する映像の何秒から何秒がどの工程かを自動で分類します。ひとつの作業も細かく見れば10から20程度の工程に分かれるため、ベテランと初心者を並べると「この工程に時間がかかっている」「この工程を飛ばしている」といった差が可視化されます。技術としてはすでに実用段階にありますが、見えるのは時間と順序までです。レベル2:動作の巧拙を判定する映像の比較によって「どちらが上手いか」を判定します。ただし、なぜ悪いのか、どう直すべきかまでは語れません。レベル3:AIが言葉で講評するこの1〜2年で、専門家のように言葉でフィードバックを返す段階に入ってきました。6. 実際に、どう進めるか5つのフェーズ実案件での進め方として、資料では5つのフェーズが示されました。図8:定義合意 → 対象選定 → 知識抽出 → 知識の検証 → 配信・運用① 定義合意では、4層スペクトラムを関係者に示し、狙う層を合意します。第4層を約束しないことが肝要だと強調されていました。② 対象選定は、事業インパクト × 抽出可能性 × 緊急性(退職時期)× 検証可能性で優先順位を付けます。③ 知識抽出では知識の型に合わせて技術を選び、AIが下書きして人が検証する分業を前提に設計します。④ 知識の検証(Knowledge QA)では、外部の形式知との整合、複数証言の交差検証、可能であれば業務ログでの統計検証を通します。⑤ 配信・運用では、静的な文書ではなく検索・対話システムに載せ、参照率や習熟期間といった指標を事前に定義します。進め方の原則として、まず1つの業務・1名の熟練者に絞り、①〜④を2〜3か月で一巡させる。一定の成果が見込めてから、初めて⑤に進む判断が可能になる、とされています。資料では、①を省くと成果物が使われないまま終わり、④を省くと誤った知識が定着する、という注意も添えられていました。どの作業から始めるか対象の選び方についても、具体的な基準が示されました。図9:発生頻度・熟練依存度・断絶時の損失の3軸発生頻度・熟練依存度・断絶時の損失という3つの軸が重なる領域が、最優先タスクになります。そのうえで、発生回数の多い定型作業から入る「高頻度型」と、熟練依存と断絶損失が最大の技能から入る「最難関型」のどちらを選ぶかは、熟練者の退職タイムラインと事業インパクトで決める、という整理です。あわせてAI適性の確認として、カメラ・音・センサーで違いを捉えられるか、良否や減点理由を定義できるか、十分な事例を収録できるか、という3点が挙げられていました。徳永は口頭でも、対象のタスクと何をセンシングすべきかが決まらないまま検証に入ると、PoC(実現可能性を検証する試行)の段階でつまずくことが多い、と繰り返し述べています。7. 取り組みの例講演の終盤では、Polaris.AIが実際に取り組んでいる例が紹介されました。図10:大手製造業様との取り組み熟練技能者の退職を見据えた技能伝承の高度化を目的に、一人称映像・音声・モーションキャプチャによる熟練作業のマルチモーダル収録と、動作・評価・指導を紐づけた教師データ構築のPoCを支援しています。査定表や指導発話をAI-OCRと音声認識で構造化し、動作に紐づける。振り返りレポートの自動生成や、対話型のAI講師のPoC開発も含みます。熟練者の動作 × 評価 × 指導発話を同一の時間軸で紐づけた教師データの構築を、現在推進中です。まとめ講演の締めくくりとして、徳永は全体を次のように整理しました。暗黙知とは、人間が五感を使ってセンシングし、経験の積み重ねによって脳と身体に蓄えてきた直感です。これをどうセンシングしてデータにするか、そのデータをどうAIやロボットに載せるかが、技能伝承の実務になります。ただし暗黙知には複数の層があり、層によって難易度も、必要なセンサーも、使う技術も異なります。映像を使えば工程の差分や手の動きの分析ができ、自然言語による構造化インタビューを使えば、人の判断を細かい粒度で記述できます。「職人の暗黙知をAIに」という言葉から始めるのではなく、対象がどの層にあるのかを見極めるところから始める。それが、この日を通して繰り返し示された考え方でした。おわりにPolaris.AIは、AIの研究開発から社会実装まで一貫して手がけています。暗黙知の抽出は、機械学習だけでも、業務知識だけでも成立しません。ドメインを理解する人、システムを設計できる人、セキュリティを担保できる人、そして各分野のAI研究者など・・・それぞれの専門性が揃って初めて、現場で動く形になります。図11:本テーマにおける支援領域現状整理と対象選定では、4層スペクトラムでの棚卸しと狙う層のすり合わせ、既存の文書・ログ資産の実査、効果測定の指標設計を行います。抽出・基盤構築では、LLMインタビューの設計、RAGや知識グラフによるナレッジ基盤の設計と開発、判定モデルの構築を担います。そしてKnowledge QAの実装では、抽出した知識の検証フローを設計し、運用に組み込みます。「うちのこの作業は、どの層の暗黙知にあたるのか」「まず何のデータから取り始めるべきか」といった、構想段階からのご相談をお待ちしております。▶︎Polaris.AIへのお問い合わせはこちら